走れメロスの表紙

走れメロス

太宰治

メロスは激怒した。

必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。

メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らしてきた。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。

きょう未明、メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里離れたこのシラクスの市にやって来た。メロスには父も母もない。女房もない。十六の、内気な妹と二人暮らしだ。

この妹に、よい夫を見つけてやりたいと思い、はるばるシラクスの市にやって来たのだ。

まずその市の様子が、どうもおかしい。ひっそりしている。もう日も暮れかかっているのに、市場にも人が出ていない。

「どうしたのだ。気味が悪い」

メロスはつぶやいた。

ひとりの老爺に聞いた。

「王様は人を殺します」

「なぜ殺すのだ」

「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな悪心を持っては居りませぬ。王の猜疑は日ごとに募るばかりです。妹婿も、その父も、その子も殺されました。今日は六人殺されました」

メロスの目が、きらりと光った。

「呆れた王だ。生かしては置けぬ」

メロスは単純な男であった。怒りが一筋にまっすぐ燃え上がり、その足で王城へ向かった。

暴君ディオニスの王座の前に引き出されたメロス、暗い王宮に紫の光が差す

王城に潜り込んだメロスはたちまち捕縛され、暴君ディオニスの前に引き出された。

「この短刀で何をするつもりであった」

王は静かに、けれども峻厳な声で問うた。

「市を暴君の手から救うのだ」

メロスは悪びれずに答えた。

「おまえには、わしの孤独がわかるまい」

王は嗤った。

「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ」

「疑わぬ者は殺される」

「殺されてもよい。だが、信実と友情の存在を、この目で王に見せてやろう」

メロスは王に願った。三日間の猶予をくれ。たった一人の妹の結婚式を挙げさせてやりたい。

「ばかな」と王は嘲った。「放しておいて、逃げぬ男があるものか」

「この市に{セリヌンティウス}という男がいる。竹馬の友だ。あれを、人質として置いていこう。おれが逃げてしまえば、あれを殺せ。おれが三日目の日没までに戻らなかったら、あれを絞め殺せ」

王は残忍な気持ちで、その願いを聞き入れた。——どうせ帰って来はしない。人間の信実などという空虚なものの正体を、この目で確かめてやろう。

セリヌンティウスは縛られた。メロスは、すぐに出発した。

友を抱きしめる暇さえなかった。ただ一言、

「三日目の日没までには必ず帰る。おれを信じてくれ」

セリヌンティウスは静かに頷いた。何も聞かなかった。なぜ王城にいるのか。なぜ捕まったのか。何一つ問わず、ただ友の目を見て、頷いた。

メロスは走った。

野を越え、山を越え、全速力で故郷の村へ向かった。妹の婚礼の支度をしなければならぬ。間に合わせなければ、セリヌンティウスが死ぬ。

村に着いたメロスは、何食わぬ顔で妹に言った。

「おまえの結婚式を明日挙げる」

妹は驚いた。けれど兄の決意の固さに、何かを感じたのだろう。黙って頷いた。

婿の牧人を呼び、村の者たちを集め、宴は賑やかに始まった。

笛が鳴り、歌が響き、人々は踊った。メロスもよく食べ、よく飲んだ。心の底では、一刻も早く出発したかった。けれど今は、精一杯に祝ってやりたかった。

この笑顔を——妹のこの晴れやかな顔を——生涯の糧にして走るのだ。

二日目の朝、メロスは花婿に妹を託し、村を出た。

「すぐ帰るよ」と妹に笑って見せたが、胸の中は嵐だった。

シラクスまで十里。日没までに着かねばならぬ。間に合う。間に合うはずだ。信じて待っている男がいる。——走れ、メロス。

初夏の日差しを背に受けて、メロスは風のように走り出した。

異変は突然やって来た。

途中の川が、昨夜の豪雨で氾濫していたのだ。濁流が轟々と唸りを上げ、橋は跡形もなく流されていた。

メロスは呆然と立ち尽くした。

「ああ、この濁流を泳ぎ渡れというのか」

飛び込んだ。何度も渦に巻かれ、沈み、水を飲み、岩に叩きつけられた。それでも藻掻き続けた。セリヌンティウスが待っている。死ぬわけにはいかぬ。

やっとの思いで対岸に這い上がったとき、全身が傷だらけで、息も絶え絶えだった。

傷だらけで灼熱の野を走り続けるメロス、遠くにシラクスの街が霞む

休む間もなく走り出した。

すると今度は、山賊が三人、行く手に立ちはだかった。

「待て。持ち物を置いていけ」

「命がけの用があるのだ。放してくれ。おれには何もない」

山賊は笑った。メロスは怒号とともに突進し、棍棒を奪い、一人を殴り倒し、一人を蹴り飛ばし、血路を開いて駆け抜けた。

もう真昼だった。太陽が真上から灼きつける。足が重い。全身の傷口から血が滲む。

それでもメロスは走った。

午後になって、メロスの足が止まった。

がくりと膝を突いた。立てない。もう一歩も動けない。

太陽は容赦なく照りつけ、喉は灼けるように渇いた。視界がぐらぐらと揺れる。

メロスは草の上に仰向けに倒れた。

——もう、どうでもよいではないか。

悪魔のようなささやきが、疲れ果てた心に忍び込んできた。

——おれは走ったのだ。精一杯に走った。もうこれ以上は無理だ。おれは充分にやった。友だって、おれの努力を認めてくれるだろう。——認めてくれないかもしれぬが、それも仕方がない。

——私は、信頼に値しない男だ。

メロスは仰向けのまま、目を瞑った。いっそこのまま死んでしまいたかった。

——どうせ、人の心など当てにはならぬのだ。王の言うとおりだ。人を信じるなどという美しい話は、所詮は絵空事にすぎぬのだ。

メロスは唇を噛んだ。血の味がした。

そのとき——

耳元で、水の音が聞こえた。

ちろちろと、岩の隙間から清水が湧いているのだ。

メロスは這い寄って、その水を掬って飲んだ。

冷たい水が、灼けた喉を潤した。

——ああ。

目の前が、晴れた。体の芯から力が湧いてきた。

義務とか道義とか——そんなものはどうでもよい。今のおれには、あの友の笑顔だけが見える。柱に縛られたまま、泰然と微笑んでいるあの男の顔が。

「待っていてくれ。今、行く」

メロスは立ち上がった。足は痺れ、傷は疼く。だが、心は定まった。

走れ。走れ、メロス。おまえの体ではない。友の命が走っているのだ。

日が傾いていく。

メロスは走った。もはや何も考えなかった。足だけが動いた。意識は朦おぼろとして、ただ前へ前へと体が進んだ。

シラクスの塔が見えた。

夕日が城壁を茜色に染めていた。広場に人だかりが見える。——あの只中に、セリヌンティウスがいるのだ。

メロスは叫んだ。

「待ってくれ、セリヌンティウス。おれはここにいるぞ」

声は嗄れ、掠れていた。けれど走った。最後の力を振り絞って走った。群衆を掻き分け、広場に飛び込んだ。

夕日に染まるシラクスの広場で抱き合うメロスとセリヌンティウス

間に合った。

沈みゆく夕日の最後の光の中で、メロスは刑場に立つ友の姿を見た。

「メロス」

セリヌンティウスの声が震えた。

縄が解かれた。メロスは友の懐に飛び込んだ。二人は抱き合った。

メロスは叫んだ。

「殴れ。おれを殴れ、セリヌンティウス。おれは途中で一度、おまえを裏切ろうとした。走るのをやめようとした。おれを殴ってくれなければ、おれはおまえと抱き合う資格がない」

セリヌンティウスは静かに言った。

「メロス、おれも殴れ。おれも、日が沈みかけたとき、一度だけ、おまえを疑った」

二人は同時に、互いのほおを殴った。

そうして、同時に笑った。

群衆は歓声を上げた。

暴君ディオニスは、群衆の輪の中にいた。王のほおを、涙が伝っていた。

「おまえたちの望み通りだ。おれの負けだ」

王はつぶやくように言った。

「信実とは、空虚な妄想ではなかった。おれには、おまえたちの友情がまぶしい。——どうか、おれをもその仲間に入れてくれまいか」

メロスとセリヌンティウスは顔を見合わせ、そして同時に手を差し出した。

群衆の中から、ひとりの少女が緋の衣をメロスに捧げた。

メロスは赤面した。

勇者は、ひどく赤面した。

おしまい

——物語の奥にあるもの

太宰治は一九四〇年、ギリシア伝説「ダモンとピュティアス」を下敷きに「走れメロス」を書きました。暴君に命を賭けた友情で挑む——それだけなら美談で終わります。しかし太宰がこの物語の真の核に据えたのは、メロスが走るのをやめかけた場面です。「もうどうでもよい」つぶやき、地面に倒れ、王の言葉を正しいと認めかける。友情とは疑いがないことではなく、疑いながらもなお走ること——太宰はそう書きました。

一九四〇年は日中戦争の渦中です。国家が国民に無条件の「信頼」「忠誠」を要求していた時代に、太宰は信頼の本質を「裏切りの誘惑を克服する行為」として描きました。王の改心はあまりにも唐突で、寓話的です。太宰はこの結末を本気で書いたのか、それとも——借金と心中未遂を繰り返し、友人たちの信頼を何度も踏みにじった太宰自身の、届かなかった祈りとして書いたのか。「勇者はひどく赤面した」という末尾の一文には、照れ隠しだけでなく、恥の自覚が滲んでいます。走れメロスは感動の物語であると同時に、信じたいのに信じきれなかった男の自画像でもあるのです。