こぶとり爺さんの表紙

こぶとり爺さん

日本昔話より

むかしむかし、ある山あいの村に、右のほおに大きな瘤のあるおじいさんが暮らしておりました。

瘤は拳ほどもあり、歩くたびにゆさゆさと揺れました。村の子どもたちは遠くからひそひそと指を差し、大人たちも目をそらしました。けれどおじいさんは気にする素振りもなく、朝は鼻歌まじりに畑を耕し、夕暮れには縁側で足を踏み鳴らして踊るのが日課でした。

このおじいさん、無類の踊り好きだったのです。祭りの囃子が聞こえれば体が勝手に動き、雨音にさえ拍子を取って手を叩く。瘤が揺れようと、誰に笑われようと、踊ることだけはやめられない——そういう性分の人でありました。

同じ村に、もうひとり瘤のある爺さんが住んでおりました。こちらは左のほおに瘤を抱えていました。

この爺さんは何につけても不機嫌で、眉間の皺が消えたことがありません。瘤のせいで嫁も来ず、近所づきあいも億劫で、朝から晩まで囲炉裏の前で膝を抱えては愚痴をこぼしておりました。

「この瘤さえなければ。この瘤さえなければ——」

二人は同じ村に住み、同じ瘤を抱えながら、まるで違う日々を生きておりました。

ある秋の日のことです。

右瘤のおじいさんは山へ柴刈りに出かけました。木の実を拾い、薪を束ね、気づけば西の空が茜に染まっておりました。

「おや、ずいぶん奥まで来てしまったわい」

帰り道を辿ろうとしたそのとき、空がにわかに暗くなりました。雷鳴が轟き、稲妻が木の幹を白く照らし、滝のような雨が降り始めたのです。

嵐でした。

おじいさんは必死に駆け、大きな杉の洞を見つけて潜り込みました。洞は思いのほか広く、ひとり分の寝床になるほどでした。雨と風の音を聞きながら、おじいさんは膝を抱えてうとうとと眠りに落ちました。

月明かりの森の広場で篝火を囲み、鬼たちが宴を開いている

——どんどん。どんどこどん。

地を揺るがすような太鼓の音で、おじいさんは目を覚ましました。

嵐はいつの間にか止んでいます。けれど森は静かではありませんでした。洞の外から、大勢の笑い声と囃子の音が響いてくるのです。

おじいさんは恐る恐る洞から顔を出しました。

月明かりの広場に——鬼がおりました。

赤鬼、青鬼、黒鬼。角を生やし、虎の皮の褌を締め、金棒を脇に置いた鬼たちが、篝火を囲んで宴を開いていたのです。

鬼たちは上機嫌でした。大きな杯で酒を酌み交わし、肉をほお張り、太鼓を叩き、歌い、そして——踊り始めました。

どすん、どすん、と大地が震えるような足踏み。腕を振り回し、体を捻り、豪快に笑いながら輪になってぐるぐると回る。

おじいさんは洞の中で息を殺していました。見つかれば喰われるかもしれない。けれど——

太鼓の拍子が、おじいさんの体の奥に沁み込んでくるのです。

どんどん。どんどこどん。

足が——勝手に動き始めました。

篝火の前で鬼たちに囲まれ、瘤のあるおじいさんが満面の笑みで踊っている

おじいさんは洞から飛び出しました。

怖いとか、危ないとか、そんなことは頭の隅にもありませんでした。太鼓が鳴っている。囃子が聞こえる。体が踊りたがっている——それだけで十分でした。

篝火の輪に躍り出たおじいさんは、瘤をゆさゆさと揺らしながら踊りました。手を叩き、足を跳ね上げ、くるりと回り、囃子に合わせて体を揺すりました。

鬼たちは一瞬、呆気にとられました。

そして——大歓声が上がったのです。

「おおっ、人間が踊っておるぞ!」「なんと見事な! なんと愉快な!」

おじいさんの踊りには、技も型もありませんでした。

ただ体が音を喜んでいる。瘤が揺れるのも、白髪が乱れるのも、息が切れるのも——すべてが踊りの一部でした。自分がどう見えるかなど、欠片も気にしていない。その無心さが、鬼たちの心を掴んだのです。

鬼の頭領——ひときわ大きな赤鬼が、膝を叩いて笑いました。

「こりゃあ面白い! 毎晩来て踊ってくれ!」

おじいさんは息を弾ませながら答えました。

「喜んで。こんなに楽しい宴は初めてじゃ」

その言葉に嘘はありませんでした。

「ならば約束の証を預かっておこう」

頭領の赤鬼がそう言うと、太い指をおじいさんの右ほおに伸ばしました。

ぽろり。

瘤が——取れたのです。

痛みはありませんでした。長年ほおにぶら下がっていた重みが、嘘のように消えました。おじいさんは手でほおを触りました。滑らかでした。瘤のあった場所は、まるで最初からなかったかのように平らでした。

「これはおまえの宝じゃろう。必ず取りに来い。待っておるぞ」

鬼たちは大笑いしながら、夜明けの霧の中に消えていきました。

おじいさんは夢見心地で村に帰りました。

すべすべのほおを撫でながら歩くおじいさんを見て、村の者たちは目を丸くしました。

「おお、瘤がない! どうしたんじゃ、あの大きな瘤は!」

おじいさんは嬉しそうに語りました。嵐の夜に鬼に出会ったこと。一緒に踊ったこと。鬼が瘤を取ってくれたこと。

その話を、垣根の向こうで聞いていた者がおりました。

ほおに瘤を抱えた、あの不機嫌な爺さんです。

「鬼の前で踊れば瘤が取れる——」

左瘤の爺さんは、その夜のうちに山へ向かいました。

嵐の来ない夜でした。月も雲に隠れた暗い夜。それでも爺さんは同じ杉の洞を見つけ、身を潜めて鬼たちを待ちました。

やがて——どんどん、どんどこどん。

太鼓が鳴り、篝火が灯り、鬼たちが姿を現しました。

爺さんは洞から這い出し、鬼たちの輪に割って入りました。

「さあ、踊ってやるぞ! 瘤を取れ!」

そう叫んで——踊り始めました。

けれどその踊りは——酷いものでした。

手足は棒のように強張り、拍子はずれ、足は縺れ、顔は引き攣っていました。音楽を楽しんでなどいない。瘤を取ってもらうことだけが目的の、打算にまみれた動き。体が喜んでいない踊りほど見苦しいものはありません。

鬼たちの顔から、みるみる笑みが消えました。

「なんじゃ、この下手くそは」「昨夜の爺さんとは大違いじゃ」「つまらん。酒が不味くなる」

頭領の赤鬼が、不機嫌に腕を組みました。

両{頬|ほお}に瘤をつけた爺さんが呆然と座り込み、鬼たちが闇に消えていく

「もう来るな。二度と顔を見せるな」

頭領はそう言い放つと、懐から何かを取り出しました。

昨夜、右瘤のおじいさんから預かった——あの瘤です。

「約束の品も返してやる。ほれ」

べちゃり。

鬼は瘤を、左瘤の爺さんの右のほおに貼りつけたのです。

瘤はぴたりとほおに張りつき、引っ張っても捻っても取れません。左のほおにも右のほおにも——大きな瘤。

鬼たちは嘲るように笑いながら、闇の中に消えていきました。

左瘤の爺さんは、両のほおに瘤を抱えて村に帰りました。

うつむき、肩を落とし、以前にも増して不機嫌な顔で——けれど誰も同情はしませんでした。瘤を取ってほしいという欲だけで鬼の前に立ち、心のない踊りを見せた報い。村の者たちはささやき合いました。

一方、右瘤のおじいさんは相変わらず鼻歌を歌い、軽くなったほおを撫でては嬉しそうに踊っておりました。

瘤がなくなったから踊るのではありません。もともと踊る人だったのです。瘤があっても踊り、なくなっても踊る。その違いが、すべてでした。

おしまい

——物語の奥にあるもの

「瘤取り爺さん」の原話は宇治拾遺物語(十三世紀初頭)に収められた日本最古級の説話のひとつです。「花咲か爺さん」「舌切り雀」と同じ「善人悪人対比譚」の型を持ちますが、この物語の核心は善悪の対比ではなく「態度」の対比にあります。右瘤の爺さんは善人だから成功したのではない——踊りを心から楽しんでいたから成功したのです。

鬼たちは観客であり批評家でもあります。彼らが見抜いたのは技術の巧拙ではなく、踊り手の内面——喜びが本物かどうかでした。目的のために踊る者と、踊ること自体が目的の者。鬼は真正な歓喜を報い、模倣を罰した。これは芸の本質に通じる洞察です。

瘤は「自分の重荷」の暗喩です。右瘤の爺さんは瘤を気にせず踊った——つまり重荷を忘れたとき、重荷は自然に外れた。これは無心の概念そのものです。自意識を手放し、ただ今この瞬間に没入する。一方、左瘤の爺さんは瘤を取ることだけを考えて踊った——結果への執着が体を強張らせ、踊りを殺したのです。

結末の残酷さにも注目すべきでしょう。左瘤の爺さんは失敗しただけでなく、瘤が二つになるという倍の罰を受ける。やり直しの機会はなく、救済もない。日本の民話における因果応報は、ときに苛烈です。けれどこの厳しさは「態度は変えられたはずだ」という前提に立っています。踊りを楽しめばよかった。ただそれだけのことが、彼にはできなかったのです。