
ガストン・ルルー
パリ、九区。スクリーブ通りの先に、ガルニエ宮はそびえていました。
金箔の天使が欄干に並び、大理石の柱が七色のランプに照らされ、夜ごとオペラの旋律がセーヌ河畔まで流れてゆく——十九世紀パリの栄華そのもののような建物です。
けれどその華やかさの裏側で、ひとつの噂が絶えることはありませんでした。
——あの建物には、幽霊が棲んでいる。
舞台裏のバレリーナたちは声をひそめて語りました。
五番ボックス席には、誰もいないのに気配がある。廊下の角を燕尾服の影が通り過ぎたかと思えば、振り返ったときにはもう誰もいない。首吊りの縄が稽古場から消え、翌朝には別の場所で見つかる。
支配人のもとには、几帳面な筆跡の手紙が届きました。
「五番ボックスは常に空けておくこと。月給二万フランを用意すること。さもなくば災厄が降りかかるであろう——亡霊Oより」
新任の支配人たちは笑い飛ばしました。たちの悪い悪戯にすぎない、と。
クリスティーヌ・ダーエは、スウェーデンから来た歌姫の卵でした。
亡き父はヴァイオリン弾き。幼い日、父は北欧の暖炉のそばで娘にこう語りました。
「いつかおまえのもとに、音楽の天使が降りてくる。その天使がおまえの声を、世界で最も美しいものにしてくれるだろう」
父が逝って何年も経ったある日——オペラ座の楽屋の壁の向こうから、声が聞こえたのです。
低く、甘く、人間のものとは思えぬほど完璧な声。それはクリスティーヌの名を呼び、歌い方を教え、旋律の呼吸の置き方を一音ずつ導きました。
「あなたは……音楽の天使なの?」
壁の向こうの声は、静かに答えました。
「そうだ。おまえの父が遣わしてくれた」

天使の導きのもと、クリスティーヌの声は日ごとに澄んでゆきました。
あるとき主役のカルロッタが突然声を失い、代役としてクリスティーヌが舞台に立ちました。ファウストのマルグリート——その最初の一声が客席に響いた瞬間、二千の聴衆が息を呑みました。
高音は水晶の糸のように震え、低音は秋の夜の靄のように聴く者の胸に沁みました。幕が下りたとき、拍手はいつまでも鳴り止みませんでした。
舞台袖に戻ったクリスティーヌは、壁に手をあて、囁きました。
「ありがとう。あなたのおかげです」
壁の向こうで、誰かがかすかに息を吐く音がしました。
デビューの夜、楽屋を訪ねた青年がいました。
ラウル・ド・シャニュイ子爵。幼い頃、ブルターニュの海辺でクリスティーヌと遊んだことのある少年が、いまは海軍士官の礼装に身を包んで立っていたのです。
「クリスティーヌ、覚えているかい。スカーフが海に飛ばされて、僕が波の中に走って取りに行った——」
「ラウル……」
再会は甘く、けれど束の間でした。クリスティーヌはすぐに顔を曇らせ、ドアを閉めました。
「帰って。天使が見ている」
廊下の影の中で、誰かの目が光りました。
天使の声は、次第に変質してゆきました。
以前は穏やかだった声が、ラウルの名を聞くたびに低く唸り、壁の向こうの気配が重くなるのをクリスティーヌは感じていました。
「あの男に近づくな」
「でも、ラウルは幼なじみで——」
「おまえの声は私が作った。おまえの音楽は私のものだ。私以外の誰にも渡しはしない」
クリスティーヌの背筋に、冷たいものが走りました。
天使ではない。これは——天使の声を持った、何か別のものだ。

ある夜、クリスティーヌの楽屋の姿見が音もなく開きました。
鏡の向こうに、燭台の灯りに照らされた石造りの通路が続いていました。その入り口に、黒いマントをまとった長身の男が立っていたのです。
白い仮面が顔の半分を覆い、見える側の瞳だけが金色に燃えていました。
「来なさい。おまえに——音楽の王国を見せよう」
クリスティーヌは、幻惑されたように、その手を取りました。
石段を降り、また降り、地下四階、五階——オペラ座の基礎を支える巨大な空洞の中へ。やがて二人の前に、黒い水を湛えた地下湖が現れました。
男は小舟に櫂を入れ、静かに漕ぎ出しました。水面に揺れる蝋燭の光が、千の星のように地下の闇を照らしていました。
地下湖の向こう岸に、ひとつの住まいがありました。
オルガンが置かれ、五線紙が散乱し、壁には重いカーテンが垂れ下がっていました。どこからともなく流れるオルガンの低音が、石の壁を震わせています。
男は仮面の奥からクリスティーヌを見つめ、静かに言いました。
「私の名はエリック。ここが私の世界だ。地上の人間たちが私を怪物と呼ぶから、私はここで——音楽だけを友にして生きてきた」
オルガンの前に座ると、エリックは弾き始めました。その旋律は、クリスティーヌがこれまで聴いたどんな音楽よりも美しく、どんな音楽よりも悲しいものでした。
「この曲の名は『ドン・ファンの勝利』。私が——いつか完成させる歌劇だ」

エリックが眠りに落ちた隙に、クリスティーヌはそっと手を伸ばしました。
あの仮面の下に何があるのか——恐ろしくてたまらないのに、知らずにはいられなかったのです。
指先が白い仮面の縁に触れ、ゆっくりと持ち上げた瞬間——
クリスティーヌは叫びました。
肌のない頭蓋。落ち窪んだ眼窩の奥で光る黄色い目。鼻はなく、唇は裂け、生きた骸骨がそこにありました。
エリックは跳ね起き、両手で顔を覆いました。
「見たな——見たな!」
その声は怒りではなく、慟哭でした。
「私は生まれたときから、こうだった」
エリックは床に蹲り、絞り出すように語りました。
「母は私の顔を見て悲鳴を上げ、仮面を被せた。父は私を見ようともしなかった。見世物小屋に売られ、『生きた骸骨』として檻の中で見せられた。ペルシャの王に仕え、絞首台を設計し、宮殿の隠し部屋を造った。建築も、奇術も、音楽も——すべてを学んだ。すべてができる。けれど誰ひとり、私の顔を見て逃げなかった者はいない」
黄金の目が、涙に濡れていました。
「おまえだけだ、クリスティーヌ。壁越しでも、おまえだけが私の声を怖がらなかった。だから——だから私は——」
クリスティーヌは地上へ戻されましたが、怪人の影は消えませんでした。
ラウルと屋上で密かに会った夜、クリスティーヌは震えながらすべてを打ち明けました。
「あの人は恐ろしい。けれど、あの音楽を聴くと——心が引き裂かれるの。あの声には、人の一生分の孤独がつまっている」
「逃げよう、クリスティーヌ。明日の公演のあと、二人で」
ラウルはクリスティーヌの手を握りました。月が二人を照らし、パリの屋根が銀色に光っていました。
けれど、二人は知りませんでした。アポロンの竪琴の像の影に、仮面の男がいたことを。すべてを、聞いていたことを。
翌日のガラ公演。満席のオペラ座に、クリスティーヌの声が響いていました。
突然——天井から轟音が落ちてきました。
巨大なシャンデリアが、鎖を断ち切られて客席に墜落したのです。硝子の破片が飛び散り、悲鳴が渦を巻き、一人の女性が下敷きになって命を落としました。
混乱の中、舞台上のクリスティーヌの足もとが開き——奈落の闇に呑まれるように、彼女の姿が消えました。
怪人が動いたのです。
地下五階の隠れ家で、エリックはクリスティーヌに婚礼衣装を差し出しました。
「私と暮らせ。ここで——永遠に」
クリスティーヌは首を振りました。エリックの目が暗く燃えました。
「ならば選べ。蝗の栓を回せばおまえとここで暮らす。蠍の栓を回せば——オペラ座ごと火薬で吹き飛ぶ。三千の人間を道連れにして」
地下の壁に仕掛けられた二つのブロンズの栓が、蝋燭の光にぬらりと光りました。
ラウルと、彼を助けに来たペルシャ人のダロガは、エリックの拷問部屋——六面が鏡張りの灼熱の密室——に閉じ込められ、意識を失いかけていました。
クリスティーヌは、蠍の栓を回しました。
それは「はい」を意味していました。エリックのそばに残るという——。
地下に溜まった水が引き、ラウルとダロガは辛うじて助け出されました。
エリックは仮面のない顔のまま、クリスティーヌの前に跪きました。
「おまえは……本当に残ってくれるのか」
クリスティーヌは黙って、その異形の顔を両手で包みました。
そして——額に、唇を触れさせたのです。

エリックが泣きました。
声を上げて、子どものように泣きました。
「生まれてから——生まれてはじめて——誰かに接吻された。母にさえ——母にさえ、一度もしてもらえなかったのに」
涙が、仮面のない顔を洗いました。その涙の跡だけが、エリックの顔に人間らしい温かさを与えていました。
やがて彼は静かに立ち上がり、クリスティーヌの指から自分が贈った金の指輪を外しました。
「行きなさい。ラウルのもとへ——行って、結婚しなさい」
「エリック——」
「あの男に伝えてくれ。おまえを幸せにしろ、と」
クリスティーヌとラウルは、夜の闇の中へ消えてゆきました。
それきり、オペラ座に怪人の気配は絶えました。五番ボックス席に手紙が届くこともなく、壁の向こうに声が響くこともなく。
数週間後——地下の隠れ家で、ひとりの男の遺体が見つかりました。
オルガンの前に横たわったその骸の指には、小さな金の指輪がはめられていたといいます。
クリスティーヌがエリックのもとへ戻って——返した、あの指輪が。
エリックは、愛に殺されたのではありません。
愛を知って——ようやく、安らかに死ぬことができたのです。
おしまい
——物語の奥にあるもの
ガストン・ルルーは新聞記者でした。一九〇九年にこの小説を書くにあたり、実際にパリ・オペラ座の地下を取材しています。建設時に地下水脈が見つかり、巨大な貯水槽が造られた——地下湖は実在するのです。一八九六年にはシャンデリアの釣り合い錘が落下して観客が死亡する事故も起きており、ルルーはこうした事実を物語の骨格に織り込みました。
エリックはロマン主義が生んだ究極の反英雄です。音楽の天才であり、建築家であり、奇術師であり——同時に殺人者でもある。その才能は社会から締め出された孤独によって研ぎ澄まされたものでした。仮面は単なる醜さの隠蔽ではなく、社会契約そのものの比喩です。顔が「人間らしくない」というだけで人間として扱われなかった者が、地下に追いやられて怪物になる。怪物を作ったのは誰なのか——ルルーが突きつけているのはその問いです。
クリスティーヌの接吻は恋愛感情ではありません。それは憐憫であり、承認であり、「あなたも人間である」という宣言でした。生まれてから一度も触れられたことのない顔に唇が触れた——その一瞬が、脅迫も殺人も厭わなかった男を根底から変えた。愛されることではなく「人間として見られること」が、エリックの求めていたすべてだったのです。
アンドリュー・ロイド=ウェバーの一九八六年のミュージカルは、エリックを魅惑的な恋人として描き直し、世界的な成功を収めました。しかしルルーの原作はロマンスよりもホラーに近い。三角関係の構図——エリック(芸術と執着)、ラウル(安全と日常)、クリスティーヌ(選ぶ者)——は『美女と野獣』の反転です。野獣は美しい姿を取り戻さない。王子にはならない。ただ、一度だけ人間として扱われ、それで満たされて死んでゆく。その結末を「救い」と呼べるかどうかは、読む者の心に委ねられています。