アンデルセン
むかし、ひとりの女がいました。子どもが欲しいと何年も願い続けていましたが、どうしても授かりません。
とうとう女は、町はずれに住む魔女のもとを訪ねました。
「どうか私に子どもをお授けください」
魔女は一粒の大麦の種を差し出して言いました。
「これを植木鉢に蒔きなさい。やがて何が起きるか、見届けるがよい」
女は家に帰り、植木鉢に種を蒔きました。するとたちまち大きな美しい花が咲きました。チューリップのようでしたが、花弁はぴったりと閉じていました。
「なんて美しい花でしょう」
女がそっと花びらに口づけをすると、ぽんと音を立てて花が開きました。
その中央に、親指ほどの小さな小さな女の子が座っていたのです。まつげは金色の糸のようで、頬は花びらのように透き通っていました。
女はこの子を親指姫と名づけました。
胡桃の殻がゆりかごになり、すみれの花びらが蒲団になりました。昼はテーブルの上の皿に水を張り、花を浮かべた小さな湖で遊びました。チューリップの花びらを舟にして、白い馬の毛を櫂がわりに漕ぐのです。
親指姫は歌いました。誰も聞いたことのないほど澄んだ、小さな声で。
けれどある夜——窓が開いていました。
醜い大きな蝦蟇が窓から跳び込んできました。
「おや、これはうちの息子の嫁にちょうどいい」
蝦蟇は親指姫が眠っている胡桃の殻ごと抱え上げ、庭を抜け、泥濘を越え、小川のそばの沼地へ連れていきました。
蝦蟇の息子は母親に輪をかけて醜く、親指姫を見ると「クワッ、クワッ、クワッ」と鳴くばかりでした。
母蝦蟇は親指姫を川の真ん中に浮かぶ睡蓮の葉の上に置きました。小さな娘には、あまりに広い緑の島でした。
親指姫は目を覚まし、自分がどこにいるかを知ると泣き出しました。水の向こうには渡れません。母蝦蟇は泥の底で息子の新居を飾りつけていました。
水の中の小さな魚たちが、親指姫の涙を見ました。そして睡蓮の茎を一斉に噛み切ったのです。
葉は川面を滑りだし、親指姫を乗せたまま、遠く遠く流れていきました。蝦蟇の手が届かないところまで。
蝶が一羽、親指姫の帯に止まりました。親指姫は帯を解いて蝶に結びつけ、葉はますます速く流れました。
そのとき、大きな黄金虫が飛んできて、親指姫の細い腰をつかみ、木の上へさらっていきました。
黄金虫は親指姫をたいそう気に入りましたが、仲間の虫たちはそうではありませんでした。
「足が二本しかない。気味が悪い」「触角がないじゃないか」「腰がくびれすぎている。まるで人間だ——醜い」
黄金虫は仲間にそう言われると、急に親指姫が醜く見えてきました。もう要らない、と木から降ろして行ってしまいました。
親指姫は泣きました。自分が醜いから捨てられたのだと思って。けれど本当は、野に咲くどの花よりも美しかったのです。
ひと夏のあいだ、親指姫はたったひとりで森の中に暮らしました。草の葉を編んでハンモックを作り、大きな葉を屋根にしました。花の蜜を吸い、朝露を飲みました。
夏が過ぎ、秋が来ました。
葉が枯れ落ち、花がしぼみ、屋根にしていた大きな牛蒡の葉も黄色くなって丸まりました。
そして冬が来ました。親指姫にとって、それは永遠のように長い冬でした。雪の一片が彼女の体には雪崩のようで、凍えて、凍えて、死にそうでした。
刈り取られた麦畑の切株の間を抜けると、小さな戸口がありました。野鼠の家です。
野鼠のおばさんは温かい竈のそばに親指姫を招き入れ、麦粥を食べさせてくれました。
「冬のあいだここにいてもいいよ。そのかわり、部屋をきれいに掃除して、毎日お話を聞かせておくれ」
親指姫はうなずきました。行くあてはなかったのです。
「そうそう、お隣の土竜さんがね、近々遊びにいらっしゃるよ」
野鼠のおばさんは自慢げに言いました。
「立派なお方でね。黒いビロードの毛皮を着て、お屋敷は途方もなく広い。あの方の奥さんになれたら、一生困ることはないよ」
土竜がやって来ました。目は殆ど見えず、太陽を嫌い、花を嫌い、空を見上げたこともない紳士でした。
けれど親指姫の歌声を聞いて、すっかり気に入りました。ただし、それを顔には出しませんでした。慎重な紳士でしたから。
土竜は自分の家と野鼠の家をつなぐ地下道を掘りました。そして二人に言いました。
「通り道に鳥の死骸が転がっているが、怖がらなくてよい。まだ温かい季節に死んだのだろう。哀れなことだ——鳥に生まれるなど。ピイピイ鳴くだけで、冬になれば飢え死にする」
地下道の途中に、一羽の燕が横たわっていました。翼を体に寄せ、頭を羽の下に埋めて。土竜は蔑むように脚でつつきました。
親指姫は胸が痛みました。
その夜、親指姫は眠れませんでした。あの燕のことが頭から離れなかったのです。
そっと起き出し、枯れ草で大きな毛布を編みました。地下道に忍び込み、燕の体に毛布をかけてやりました。
燕の胸に頭を寄せると——とくん、と音がしました。心臓が動いているのです。燕は死んではいませんでした。寒さに仮死の状態だったのです。
親指姫は毎晩こっそり通い、水を運び、麦粒を口に含ませました。誰にも言いませんでした。土竜もおばさんも、鳥が嫌いでしたから。
春が来て、地上に陽の光が差し込むころ、燕は元気を取り戻しました。
「ありがとう、小さなお嬢さん。あなたのおかげで命が助かりました。暖かい国へ飛んでいかなくてはなりません——一緒に来ませんか」
親指姫は心が揺れました。けれど野鼠のおばさんを独りにするのは忍びないと、首を横に振りました。
「さようなら、やさしい小さなお嬢さん」
燕は青い空へ飛び立っていきました。親指姫はその姿が見えなくなるまで見送り、涙を流しました。太陽の光を見たのは、久しぶりのことでした。
「おめでとう!」野鼠のおばさんが声を弾ませました。「お隣の土竜さんが、おまえを嫁にもらいたいとおっしゃっている。なんという幸運だろう!さあ、支度をしなくちゃ。リンネルもウールも織らなければ。土竜さんの奥様になるのに不足があっては困るからね」
親指姫は糸車を回しながら泣きました。
土竜の屋敷は地の底深くにあります。太陽の光は永遠に届きません。花も風も空もありません。暗くて広くて立派な——牢獄でした。
結婚式の日が近づきました。秋が終われば、親指姫は土の下へ降りていくのです。
毎日の夕暮れ、親指姫は戸口に立って空を見上げました。麦の穂の隙間から差し込むわずかな光の中に、指を伸ばしました。
「さようなら、お日さま」
親指姫はささやきました。
「さようなら、赤いお花。さようなら、風。もし燕に会ったら——燕に、親指姫がよろしくと言っていたと、伝えてください」
そのとき、頭の上から聞き覚えのある声がしました。
「ピィ、ピィ!」
あの燕でした。暖かい国から戻ってきた燕が、親指姫を見つけたのです。
親指姫は泣きながら、すべてを話しました。醜い土竜のもとへ嫁がなければならないこと。二度と太陽を見られないこと。
「冬がまた来ます。私は暖かい国へ飛んでいかなくてはなりません——今度こそ、一緒に来ませんか。私の背中に乗るのです。帯で体をしっかり結びつけて。あなたを花の咲く国へお連れします」
「はい」
親指姫は今度は迷いませんでした。
燕は高く、高く飛びました。森を越え、海を越え、雪を戴く山々を越えて。親指姫は燕の背中の温かい羽毛にくるまり、顔だけを出して下を眺めました。
やがて空気が変わりました。柑橘の香りが風に混じり、陽射しが金色に柔らかくなり、葡萄と無花果が丘を彩っていました。
「まだです」燕は言いました。「もっと美しい場所へ」
青い湖のほとりに、大理石の白い宮殿の廃墟がありました。その柱に燕の巣がかかっていました。そしてその足もとには、大きな白い花がいくつも咲いていたのです。
燕が親指姫をひとつの花の上にそっと降ろすと——花の中から小さな王子が現れました。
透きとおった翼を持ち、頭には金の冠を戴いた、親指姫とちょうど同じ背丈の美しい青年でした。どの花にもこうした小さな王や女王が住んでいたのです。
王子は親指姫を見た瞬間、世界で一番美しい人だと思いました。
「私の名前を教えてください」
「親指姫です」
「いいえ、その名は相応しくない。あなたをマイアと呼びましょう」
花の精たちが祝福し、一番の贈り物は——燕がくれた、一対の透きとおった翼でした。
おしまい
——物語の奥にあるもの
アンデルセンが一八三五年に発表したこの物語を、子ども向けの冒険譚として読むことはもうできません。親指姫の旅路をたどり直すと、そこにあるのは「居場所のない女」の物語です。蝦蟇は息子の嫁に、黄金虫は美しい愛玩物に、野鼠は家事労働者に、土竜は地下の妻に——親指姫は行く先々で、相手の都合に合わせた役割を押しつけられます。そしてそのどれにも、彼女自身の意思は反映されていません。
フェミニスト批評家たちがこの物語に注目したのは、「結婚からの逃走」が繰り返し描かれるからです。蝦蟇との結婚は魚たちが阻み、土竜との結婚は燕が阻む。親指姫自身が拒絶の声を上げる場面は、実は一度もありません。彼女はつねに「救われる」のであって、「逃げる」のではない。最後に花の王子と結ばれることも、自分で選んだというよりは「今度こそ居心地のいい場所に置かれた」という構造です。
けれど一つだけ、物語の中に対等な関係があります。親指姫と燕です。親指姫は瀕死の燕を看病し、燕は親指姫を閉塞の地下から救い出す。これだけが一方的な所有ではなく、互いが互いを生かした関係です。アンデルセン自身、靴屋の息子として上流社会に馴染めず、恋愛でも繰り返し拒絶された人間でした。蝦蟇の世界にも黄金虫の世界にも土竜の世界にも属せない親指姫の孤独は、どこにも収まれなかったアンデルセン自身の孤独と重なります。
花の国で与えられた新しい名「マイア」は、五月の女神に由来します。他者が決めた名前ではなく、新しい世界での新しい名前。けれど——それもまた、王子がつけた名前です。「本当の自分の名前」を親指姫が自分で名乗る日は、この物語のどこにも書かれていません。あなたは、自分の名前を自分で選んだことがありますか。