浦島太郎の表紙

浦島太郎

日本昔話より

むかし——丹後の国の海辺に、浦島太郎という若い漁師が暮らしておりました。

父を早くに亡くし、年老いた母とふたり、小さな舟で魚を獲って暮らす日々でございます。朝は誰よりも早く沖に出て、夕暮れには浜で網を繕う——村の者たちからは、律儀で心のやさしい男だと慕われておりました。

ある春の日のこと、太郎が浜辺を歩いておりますと、子どもたちの嬌声が聞こえてまいりました。

五、六人の子どもたちが、浜に打ち上げられた一匹の亀を囲んでおりました。棒で甲羅を叩き、仰向けにひっくり返しては笑い転げている。亀は必死に手足をばたつかせておりましたが、もはや力尽きかけておりました。

太郎は走り寄り、子どもたちに声をかけました。

「これこれ、やめてやりなさい。亀は万年を生きるめでたい生きものだ。いじめると罰が当たるよ」

太郎は懐から銭を取り出し、子どもたちに握らせて亀を買い取りました。そうして、そっと波打ち際まで運び、海へ帰してやったのでございます。

それから三日が過ぎた朝のことでございます。

太郎がいつものように舟を出し、沖で釣り糸を垂れておりますと、波の間から一匹の亀がゆっくりと顔を出しました。先日助けた、あの亀でございます。

亀は人の言葉で申しました。

「浦島さま。先日は命をお救いいただき、まことにありがとうございました。お礼に、海の底の竜宮城へご案内いたしとうございます」

太郎は目を丸くしましたが、亀のひとみがあまりにも澄んでおりましたので、不思議と怖れは感じませんでした。

亀の背に乗り、{珊瑚|さんご}や魚たちの間を抜けて深い海へと潜っていく浦島太郎

太郎が亀の背に乗りますと、亀は静かに海へ潜りはじめました。

波を分け、光の帯をくぐり、青はしだいに深い藍に変わっていきます。鯛や鮃が群れをなして泳ぎ、珊瑚さんごの林が紅く枝を広げ、水母がゆらゆらと光を纏いながら漂っておりました。

太郎は息ができることに驚きましたが、それすら忘れてしまうほど、海の底の景色は美しいものでございました。

どれほど進んだでしょうか。やがて遠くに、淡い光を放つ巨大な門が見えてまいりました。

竜宮城——。

珊瑚さんごの柱に真珠の瓦、瑠璃の床に翡翠の欄干。地上のいかなる宮殿も及ばぬ、夢のような城でございました。

門をくぐりますと、鯛や鮃の侍女たちが恭しく出迎え、太郎を奥の大広間へと案内いたしました。

そこに——乙姫さまが待っておられました。

{珊瑚|さんご}と真珠で飾られた竜宮城の大広間で、乙姫が微笑みながら浦島太郎を迎える

乙姫さまは、太郎がこれまで見たどんな花よりも美しいお方でございました。

薄紅の衣をまとい、黒髪は海の底の闇よりも深く、微笑むと水の中にほのかな光が広がるのでございます。

「ようこそおいでくださいました、浦島さま。亀を助けてくださったお礼に、どうかゆるりとおくつろぎくださいませ。この竜宮では、何も急ぐことはございません」

そう言って乙姫さまが手を打ちますと、豪華な膳が次々と運ばれてまいりました。見たこともない海の珍味の数々——鮑の煮物、海鼠の酢のもの、海の宝石のような料理が並びました。

宴が終わると、乙姫さまは太郎の手を取り、城の奥へと案内しました。

「こちらをご覧くださいませ」

東の間の襖を開けますと——桜が満開でございました。花びらが風に舞い、鶯が枝から枝へと歌いながら飛び交っておりました。甘い春の匂いが、太郎を包みました。

南の間をのぞけば——蝉が鳴く真夏でございました。青々と茂る木々の向こうに、入道雲が眩しく湧き上がっておりました。

西の間には——紅葉が燃えておりました。

錦のように赤く黄色く染まった山々が広がり、澄んだ風がほおを撫でていきます。どこかで鹿が一声鳴きました。

そして北の間——。

一面の銀世界でございました。牡丹のような雪がしんしんと降り積もり、池は凍りつき、枯れ木の枝に氷柱が光っておりました。

春夏秋冬——四つの季節が、四つの部屋にそれぞれ閉じ込められている。太郎は息を呑みました。

「ここでは時が、お好きなままに流れるのでございます」

乙姫さまは静かに微笑みました。

太郎は竜宮城で夢のような日々を過ごしました。

朝は珊瑚さんごの庭を散歩し、昼は色とりどりの魚たちの舞を眺め、夕は乙姫さまと語り合い、夜は真珠のように光る天井の下で眠りにつきました。

何ひとつ不自由のない、穏やかな日々でございます。

けれど——ある朝、太郎はふと目を覚まして、天井を見つめました。

母の顔が浮かんだのでございます。あの小さな藁葺きの家で、ひとり息子の帰りを待っているであろう、年老いた母の顔が。

「乙姫さま。楽しい日々でございました。けれど、そろそろ暇を頂きとうございます。村に年老いた母がひとりでおります。さぞ案じておることでしょう」

乙姫さまの微笑みが、ほんの一瞬だけ揺れました。

「もう——お帰りになるのですか」

「三日ほど経ったかと思いますが、母のことが気がかりで」

乙姫さまはしばらく黙っておられました。やがて、何かを堪えるように目を伏せ、静かにおっしゃいました。

「……わかりました。お止めすることはいたしません」

乙姫さまは奥から美しい小箱を持ってまいりました。

漆のように黒く、金銀の蒔絵が施され、絹の紐で固く結ばれた——玉手箱でございます。

「これをお持ちくださいませ。けれど、ひとつだけお約束を。決して、蓋を開けてはなりません」

太郎は不思議に思いましたが、乙姫さまのひとみがあまりに真剣でありましたので、深く頷きました。

「決して開けません。お約束いたします」

乙姫さまはそれ以上何も言わず、ただ一度だけ、太郎の手をそっと握りました。その指先は、微かに震えておりました。

亀に乗って海面に浮かび上がりますと、あの見慣れた浜が目に入りました。

——けれど、何かが違いました。

太郎が知っている松の木がありません。浜辺の岩の形も違う。舟を繋いでいた杭も、干していた網も、何もかも消えておりました。

太郎は玉手箱を抱えて村へ走りました。

村の姿は、一変しておりました。

太郎の家があった場所には、見知らぬ家が建っておりました。道の形も変わり、畑の区画も変わり、行き交う人々の顔に見覚えのある者はひとりもおりません。

太郎は声をかけました。

「あの——このあたりに浦島という漁師の家は……」

老人がひとり、首をかしげました。

「浦島? ああ……浦島太郎のことかね。それは三百年も昔の話だよ。海に出たまま帰らなかった漁師がおったという。もう誰も覚えておらんが……祠だけが残っておる」

三百年——。

太郎は、立っていることができなくなりました。

母は。

母はとうの昔に亡くなっていたのでございます。息子の帰りを待ちながら、ひとりで。

太郎は浜辺にうずくまりました。波の音だけが、三百年前と変わらずに聞こえておりました。

手の中には、乙姫さまから授かった玉手箱があります。

——開けてはなりません。

乙姫さまの声が、耳の奥で響きました。

けれど太郎は思いました。もう何もないのだ。母も家も村も、自分を知る者すら、この世のどこにもいない。ならば、この箱の中に何があろうと、もはや失うものなど——。

玉手箱から立ちのぼる白い煙に包まれ、一瞬で白髪の老人に変わる浦島太郎

太郎は、絹の紐をほどきました。

蓋を開けた刹那——。

白い煙が、音もなく立ちのぼりました。

それは太郎の顔を包み、髪を包み、手を包みました。煙が晴れたとき、太郎の黒髪は雪のように白くなっておりました。背は曲がり、手には深い皺が刻まれ、若く逞しかった漁師の姿は、どこにもありませんでした。

玉手箱の中に閉じ込められていたのは、太郎が竜宮城で過ごした三百年という歳月そのものだったのでございます。

太郎は震える手で、空になった箱を抱きしめました。

潮風が白い髪を揺らし、夕陽が老いた体を茜色に染めました。

波の向こうに、あの竜宮城がまだあるのでしょうか。乙姫さまは、今もあの珊瑚さんごの大広間で微笑んでおられるのでしょうか。

太郎のひとみから、一筋の涙が零れました。

それが波に落ちたとき——ほんの一瞬、水面が淡く光ったように見えました。

けれどそれも、すぐに消えてしまいました。

おしまい

——物語の奥にあるもの

浦島太郎の物語は、日本最古の文学のひとつです。八世紀の『万葉集』には水江浦嶋子を詠んだ歌が収められ、『丹後国風土記』にはさらに詳しい説話が記されています。千三百年以上にわたって語り継がれてきた、時間と喪失の物語です。

竜宮城は、日本の古層にある「常世の国」——海の彼方にあるとされた不老不死の異界と重なります。そこでは時間が止まり、老いも死もない。しかし常世の恩恵を地上に持ち帰ることはできません。玉手箱は「こちら側」「あちら側」を隔てる結界であり、蓋を開ける行為は、不可逆の時間に身を戻すことを意味しています。知ってしまった楽園は、二度と知らなかった頃には戻れない。

ワシントン・アーヴィングの『リップ・ヴァン・ウィンクル』(一八一九年)はしばしば西洋版の浦島太郎と比較されます。二十年眠って目覚めたリップは、独立革命後のアメリカに戸惑いながらも、やがて新しい社会に居場所を見つけます。しかし太郎の結末ははるかに残酷です。三百年の歳月は取り戻せず、自らの肉体にその代償を刻まれる。帰る場所はどこにもなく、救いもない。

四季の部屋は、竜宮城における時間の隠喩です。春夏秋冬を一望のもとに見渡せるということは、時の流れの外側に立つということ。太郎はそこで三百年分の季節を一度に享受しながら、地上では三百回の春が花を散らし、三百回の冬が雪を降らせていたのです。

現代の読者にとって、この物語は故郷を離れた者の寓話でもあります。長い年月を経て帰郷した移民が見る、変わり果てた故里。記憶の中の風景と、目の前の現実との乖離。浦島太郎の絶望は、「帰る場所がもうない」と気づいた瞬間の普遍的な痛みを映し出しています。