野の白鳥の表紙

野の白鳥

アンデルセン

遠い国に、十一人の王子と一人の王女を持つ王がいました。

王子たちは胸に星の勲章をつけ、腰に剣を帯びて学校へ通いました。ダイヤモンドの石筆で金の石盤に文字を書き、一度読んだ本はすべて諳んじることができました。

末の妹エリーザは、まだ小さくて学校には行けません。絵の描かれた本を膝にひろげて、薔薇ばらの花で飾られた宮殿の庭で遊んでいました。

けれど幸福な日々は長くは続きませんでした。

王が新しい妃を迎えたのです。この継母は意地の悪い魔女でした。婚礼の日から子どもたちを憎み、まずエリーザを田舎の百姓のもとへ追いやりました。

それから王に、王子たちについてありとあらゆる讒言を吹き込みました。王はやがて息子たちを見るのさえ嫌になりました。

「出ていくがいい。声なき鳥になって飛んでいけ」

継母は呪いの言葉を唱えました。

呪いによって白鳥の姿に変えられ、宮殿の窓から飛び立つ十一人の王子たち

しかし魔女の力にも限りがありました。王子たちを醜い鳥に変えることはできず、十一羽の美しい白鳥が、長い嘶きのような鳴き声をあげて、宮殿の窓から飛び立っていったのです。

森を越え、野を越え、白鳥たちは海の向こうへと消えました。

百姓の家では、小さなエリーザが何も知らず、木の葉を相手に遊んでいました。兄たちからもらった薔薇ばら以外に、おもちゃは何一つありませんでした。

やがてエリーザは十五になりました。宮殿に呼び戻されましたが、その美しさを見た継母は嫉妬しっとに狂いました。

胡桃の汁でエリーザの肌を黒く染め、悪臭のする膏薬を塗りたくり、髪をもつれさせました。美しかったエリーザは、もう誰にもわからぬ姿になりました。

父である王でさえ「こんな娘は知らぬ」と顔を背けました。エリーザは宮殿を追われ、たった一人で広い世界へ出ていきました。

エリーザは兄たちを探して歩きました。深い森を彷徨さまよい、柔らかな苔の上で夜を明かしました。

小川で顔を洗うと、胡桃の汁は流れ落ち、もとの白い肌が現れました。服を脱いで水に浸かると、この広い世界にエリーザほど美しい王女はどこにもいないと、森じゅうの木々がささやきました。

「白鳥を見なかったかしら」エリーザは森の鳥たちに訊きました。

鳥たちは首を振りました。けれど野苺の茂みだけが、そっと実を差し出してくれました。

ある老婆が森で出会い、金の冠をかぶった十一羽の白鳥を見たと教えてくれました。エリーザは川を辿って海辺へ出ました。

日が沈むとき、十一羽の白鳥が金の冠をつけて飛んできました。日の光が消えた刹那、白鳥の姿が崩れ、十一人の美しい王子が砂浜に立っていました。

「エリーザ!」

エリーザは兄たちの腕に飛び込みました。泣いて、笑って、互いの不幸を語り合いました。兄たちは日の出から日没まで白鳥の姿で飛び続け、人間に戻れるのは夜のあいだだけだと言いました。

「遠い海の向こうに、僕たちの住む国がある。年に一度だけ故郷へ飛んで帰れるんだ。おまえも一緒に来るかい」

兄たちは夜通しかけてイグサの網を編み、翌朝白鳥になると、その網にエリーザを乗せて大海原を渡りました。

波の上を一日じゅう飛び続け、日が沈むころ、遠い国の崖の上の洞窟にたどり着きました。エリーザはそこでつたの褥に横たわり、兄たちのために何ができるか、どうか夢で教えてくださいと祈りながら眠りにつきました。

夢の中で、蜃気楼の宮殿に棲む妖精の女王が現れ、エリーザにこう告げました。

「教会の墓地と、おまえの洞窟のそばに生えるイラクサを見なさい。素手でそれを摘み、素足で踏んで亜麻のようにほぐし、糸に紡いで十一枚の帷子を編みなさい。それを白鳥たちに投げかけたとき、魔法は解ける」

「ただし——帷子を編み終えるまで、おまえは一言も口をきいてはならない。一言でも声を発すれば、その言葉は短剣となって兄たちの心臓を貫くだろう」

洞窟の中でイラクサに灼かれながら黙って帷子を編み続けるエリーザ

エリーザは目を覚ますと、洞窟の入口にイラクサが生えているのを見つけました。

指で触れた途端、火で焼かれるような痛みが走りました。それでもエリーザは素手でイラクサを摘み、素足で踏みつぶし、緑の糸を紡ぎはじめました。

手には大きな水疱ができました。腕は焼けただれ、指は血に染まりました。けれどエリーザは唇を引き結んだまま、黙って編み続けました。兄たちの命がかかっているのです。

日が暮れると兄たちが帰ってきました。エリーザが一言も話さないのを見て、これも継母の新しい魔法かと悲しみました。

けれどエリーザの手を見て——焼けただれ、血に滲んだ指と、傍らに広げられた緑の帷子を見て、末の弟が気づきました。

「姉さんは僕たちのために何かをしているんだ」

弟はエリーザの手を取って泣きました。その涙が手の傷に触れると、水疱はすうっと消えて、痛みも和らぎました。

六枚の帷子が編み上がったころ、森の奥から狩りの角笛が聞こえてきました。

その国の若い王が、猟犬を連れてエリーザの洞窟を見つけたのです。イラクサに焼かれた手で黙々と編み物をする美しい娘に、王は心を奪われました。

「おまえは何者だ」

エリーザは首を振るばかりです。王はエリーザを馬に乗せ、城へ連れ帰りました。絹の衣を着せ、髪に真珠を飾り、エリーザを妃にしました。エリーザは一言も話しませんでしたが、その目は深い悲しみと感謝をたたえていました。

王はエリーザに小さな部屋を与え、そこに洞窟から持ってきたイラクサと編みかけの帷子を置きました。

エリーザは夜ごと、その部屋で帷子を編み続けました。けれどイラクサが足りなくなりました。教会の墓地に生えるイラクサでなければならないのです。

真夜中、エリーザは一人で墓地へ忍んでいきました。墓石の上に醜悪な魔女たちが座って死者の衣を剥いでいるのが見えました。エリーザは恐怖におののきながら、その傍らのイラクサを摘みました。

それを見ていた者がいました。大司教です。

大司教は以前からエリーザを疑っていました。口をきかない妃。真夜中に墓場をうろつく女。あれは魔女に違いない、と王に讒言しました。

「あの女は魔術を使っておられるのです。だからこそ陛下は目が眩んでいるのだ」

王は信じませんでした。けれどエリーザが何度も真夜中に墓地へ通うのを見て、次第に心が揺らぎはじめました。

エリーザの目には涙が光っていました。しかし弁明の言葉を口にすれば、兄たちは死ぬのです。

ついにエリーザは魔女の廉で裁判にかけられました。

大司教は声高に糾弾しました。口をきかぬのは悪魔との契約の証。墓地のイラクサは呪物。編んでいるのは人を殺すための魔法の衣だ、と。

聖書の木像が首を振って罪を告げたと、群衆は信じました。

王は蒼白な顔でうつむきました。エリーザは火刑に処せられることが決まりました。

エリーザは牢の中でも編み続けました。残る帷子はあと一枚。イラクサはもう手元の分しかありません。

火刑台へ向かう荷車の上で最後の帷子を編むエリーザと、空から舞い降りる白鳥たち

処刑の朝が来ました。

エリーザは襤褸をまとい、荷車に乗せられて街を引き回されました。群衆が罵声を浴びせました。「魔女を焼け!」

エリーザの膝には、編みかけの最後の帷子がありました。十枚の完成した帷子を抱きしめながら、焼けただれた指で最後の一枚を編み続けていました。

群衆がそれを引き裂こうとしました。

そのとき——空から十一羽の白鳥が舞い降りてきました。荷車を取り囲むように翼を広げ、群衆を威嚇しました。

帷子を受けて人間の姿に戻る王子たち。末の弟の左腕だけが白い翼のまま残っている

エリーザは十一枚の帷子を白鳥たちに投げかけました。

その瞬間、白鳥の羽が剥がれ落ち、十一人の美しい王子が立っていました。

けれど——末の弟だけは、左腕が翼のままでした。最後の帷子は袖が一本、編み終わっていなかったのです。

「もう話してもいいのね」

エリーザはそう言って、荷車の上で崩れ落ちました。長い沈黙がようやく解けたのです。

長兄がすべてを語りました。群衆は静まり返り、やがてひざまずきました。

エリーザが手に持っていた薪の一本から、白い花が咲きました。まるで天が彼女の潔白を証すかのように。

王はその花を摘んでエリーザの胸に置きました。教会の鐘がひとりでに鳴り出し、空のかなたから鳥の群れが飛んできて、宮殿へ帰る道に花を撒きました。

それは誰も見たことのないような、美しい婚礼の行列でした。

おしまい

——物語の奥にあるもの

この物語の核心は「沈黙」です。エリーザは兄たちを救うために声を奪われるのではなく、自ら声を手放します。弁明すれば自分は助かる。けれどその一言が兄たちの心臓を貫く——だからエリーザは、魔女と呼ばれ、火刑を宣告されてもなお、唇を閉じ続ける。これは受動的な忍耐ではありません。沈黙という行為を、意志をもって選び取り続ける能動的な犠牲です。

グリム童話の「六羽の白鳥」では、沈黙の期間は六年間で兄弟は六人、編むのは星草の帷子です。アンデルセンは兄弟を十一人に増やし、素材をイラクサに変えました。星草は手を傷つけませんが、イラクサは素手で触れれば皮膚が爛れる。愛が観念ではなく身体の痛みとして刻まれるのは、アンデルセン版だけの発明です。エリーザの手の火傷は、愛の抽象を拒む——愛は灼けるものだと、この物語は主張しています。

大司教の存在も見逃せません。「口をきかない女」「夜中に墓場を歩く女」「理解できない行動をとる女」——それを制度の側から「魔女」と名指し、火で清めようとする。大司教が体現するのは、自らの理解の枠に収まらないものを排除しようとする権力の構造そのものです。エリーザが沈黙するのは魔法の制約ゆえですが、歴史の中で沈黙を強いられてきた者たちの姿がそこに重なります。

そして物語は完璧な結末を拒みます。末の弟の腕は翼のまま残る。最後の帷子が間に合わなかったからです。この「不完全な救済」こそが、アンデルセンの凄味です。どれほどの犠牲を払っても、すべてを元通りにすることはできない。愛は万能ではない。けれど不完全であっても、為さずにはいられなかった——その翼は、救いきれなかった痛みの記憶であると同時に、人間が人間のために差し出しうるものの証でもあるのではないでしょうか。